世界ユネスコ無形文化遺産 古川祭

気多若宮(けたわかみや)神社の例祭である古川祭は、毎年4月19日・20日の2日間にわたって行われます。古式ゆかしい神輿の巡行や、勇壮な裸祭りである起し太鼓、そして絢爛豪華な屋台行事などからなり、特に「古川祭の起し太鼓・屋台行事」は、昭和55年(1980)に国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年(2016)に「山・鉾・屋台行事」として、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。

気多若宮神社の由緒

気多若宮神社の創祀は明らかではありませんが、『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』に、飛騨国気多若宮神が貞観(じょうがん)15年(873)に従五位下、元慶(がんぎょう)5年(881)に従五位上の神階を奉授したとあります。また、天正年間(1573~1592)に、増島(ますしま)城主金森可重(かなもりありしげ)(1558~1615)が鬼門を守護するために是重(これしげ)村(現在の古川町是重)に鎮座していた杉本(すぎもと)社(杉本大明神)を、現在の気多若宮神社の鎮座地である上北(かみきた)村(現在の古川町上気多(かみきた))に奉遷したと伝えられております。
その後、国学者富田礼彦(とみたいやひこ)(1811~1877)らの考証により、杉本社がかつての気多若宮神であると比定されました。これにより、明治4年(1871)気多若宮神社の社号に改称しました。

起し太鼓

古川祭・起し太鼓

古川祭・起し太鼓

天保2年(1831)と推定される『定式(じょうしき)』(祭礼執行の取り決めをまとめたもの)に、はじめて「起太鼓」の語が見られます。もとは、祭礼の始まりを知らせるために夜明け前から太鼓を打ち鳴らして町内を廻る行事であり、「目覚太鼓(めざましだいこ)」と呼ばれていたこともありました。
数百人の裸男による祝い唄の唱和で幕を開け、直径80cmの大太鼓を載せた櫓が、数多くの丸小提灯や高張提灯に先導されて動き出します。大太鼓に跨った二人の若者が、長いバチを振りおろして大太鼓の深い音色を響かせます。
町中に「付太鼓(つけだいこ)」と呼ばれる小太鼓を持った男たちが待ちかまえ、次々と櫓をめがけ突進する。「付太鼓」を櫓の真後ろに付けることが最大の名誉とされ、町内12の各組は我先に付けようと他の組と激しく争います。また、「後衛(こうえい)」と呼ばれる屈強な男たちが櫓を守り、「付太鼓」を阻止しようとします。斯様な迫力のある攻防は、19日夜から20日未明にかけて町のいたるところで展開されます。


屋台行事

古川祭・屋台行事

古川祭・屋台行事

古川祭屋台の起源も定かではありませんが、近江国彦根(現・滋賀県彦根市)専宗(せんそう)寺の住職で俳人の林篁(りんこう)(1724~1787)の紀行文『飛騨美屋計(ひだみやげ)』に、天明(てんめい)2年(1782)の祭礼の時、9台の屋台が曳き揃えられ、屋台芸能や祝詞奏上が行われたとあります。かつては神輿行列を先導すべく屋台が曳行されておりましたが、今日では屋台の名称を大書した台名旗がそのかわりを果たしております。
19日朝、神輿を迎えるために9台の屋台が姿をあらわし、それぞれの地区で曳行(えいこう)されます。20日は朝から夕方まで古川町内各所で屋台が曳き揃えられ、夜祭では提灯をともしながら厳かに曳行し、曳き別れの曲を奏でながら静かに各屋台蔵に戻ります。
屋台は青龍(せいりゅう)台・鳳凰(ほうおう)台・麒麟(きりん)台・三光(さんこう)台・金亀(きんき)台・清曜(せいよう)台・龍笛(りゅうてき)台・白虎(びゃっこ)台・神楽(かぐら)台の9台あります(なお三番叟(さんばそう)は現在休台)。それぞれの屋台は改修や改築が重ねられ、より華麗により繊細にと競い合った歴史が垣間見られます。また、青龍台では「大津絵(おおつえ)」、麒麟台では「石橋(しゃっきょう)」のからくり人形が、白虎台では「橋弁慶(はしべんけい)」の子供歌舞伎が奉納されます。



青龍台(せいりゅうだい) 殿町(とのまち)組

青龍台

青龍台

安政(あんせい)6年(1859)に高山の黄鶴(おうかく)台を購入した際に玄翁(げんおう)台と称し、明治初年には青龍台と改称しました。現在の屋台は昭和15年(1940)に新築されたものです。
台紋の梅鉢(うめばち)は金森氏の家紋。台名の青龍は四神のひとつで東方を守護。見送りは堂本印象(どうもといんしょう)「昇天龍」で、京都東福寺(とうふくじ)本堂・熱海観音堂の天井絵とともに堂本印象筆三大龍と称えられております。奉納芸はからくり人形「大津絵(おおつえ)」。


鳳凰(ほうおう)台 壱之町中(いちのまちなか)組

鳳凰台

鳳凰台

創建年代不詳。明治24年(1891)に廃台。大正11年(1922)新築。工匠は村山群鳳(むらやまぐんほう)、彫刻は村山群鳳・大島五雲(おおしまごうん)・南部白雲(なんぶはくうん)。なお、この新築のとき、県外の製糸会社から寄附を受けました。
台紋は鳳凰。台名の鳳凰は四霊のひとつに数えられます。見送りは長谷川玉純(はせがわぎょくじゅん)「鳳凰飛舞図」。


麒麟(きりん)台 壱之町下(いちのまちしも)組

麒麟台

麒麟台

嘉永元年(1848)に壱之町上組より分離しました。文久3年(1863)に高山の石橋台を購入しましたが、元治2年(1865)の加重(かじゅう)火事にて焼失してしまいます。明治14年(1881)高山の龍神(りゅうじん)台を購入し、大正13年(1924)に廃台しました。現在の屋台は、昭和8年(1933)に新築されたもので、工匠は上谷彦次郎・中村房吉、彫刻は大島五雲・岡田芳貞です。
台紋は麒麟くずしですが、かつては獅子くずしでありました。台名の麒麟は四霊のひとつ。見送りは前田青邨(まえだせいそん)「風神雷神図」と玉舎春輝(たまやしゅんき)「日本武尊東征図」。奉納芸はからくり人形「石橋(しゃっきょう)」。


三光(さんこう)台 弐之町上(にのまちかみ)組

三光台

三光台

かつては龍門(りゅうもん)台と称しましたが、文久2年(1862)の新築のときに三光台と改名しました。設計は蜂谷理八(はちやりはち)、工匠は石田春皐(いしだしゅんこう)、彫刻は石田春皐・蜂谷理八・坂井嘉一郎です。
台紋は光字の三ツ巴。台名の三光は日・月・星の総称。屋台囃子は明治維新頃に流行したヤッパン・マルスの旋律が感じとられるといわれ、他の屋台囃子よりもやや速く、リズム・メロディもはっきりしています。見送りは松村梅宰(まつむらばいさい)「虎図」、幸野楳嶺(こうのばいれい)「素戔嗚尊八岐大蛇退治図」。


金亀(きんき)台 弐之町中(にのまちなか)組

金亀台

金亀台

安永5年(1770)に新築された記録があり、古川祭屋台のなかで最も古いものであります。現在の屋台は天保12年(1841)に新築されたもので、工匠は谷口延恭です。
台紋は亀甲くずし。亀は四霊のひとつ。見送りは、天保12年に京都にて購入したゴブラン織の「双龍図」と鈴木松年(すずきしょうねん)「亀上浦島図」。


龍笛(りゅうてき)台 弐之町下(にのまちしも)組

龍笛台

龍笛台

初代の屋台は安永年間(1772~1781)に建造されたと伝えられております。明治15年(1882)老朽化のために廃台し、明治19年(1886)に新築しました。工匠は谷口宗之・谷口宗俊、彫刻は清水寅吉。
台紋は龍の爪。龍は四霊のひとつ。古川祭屋台のなかで一番大きいものです。見送りは垣内雲嶙(かいとううんりん)「雲龍図」。


清曜(せいよう)台 三之町上(さんのまちかみ)組

清曜台

清曜台

かつては扇子(せんす)台と称しました。天保10年(1839)頃、三之町が上組・下組を分離する際、抽籤により当上組の所有となり、清曜台と改称しました。弘化2年(1845)の祭礼には清曜台の名で参列しております。明治26年(1893)、壱之町下(いちのまちしも)組を曳行中に転倒し倒壊してしまいます。現在の屋台は昭和16年(1941)に新築されたもので、工匠は上谷彦次郎です。
台紋は剣三ツ星。台名の清曜は「清くかがやく」という意味です。見送りは今尾景祥(いまおけいしょう)「海浜老松図」。


白虎(びゃっこ)台 三之町下(さんのまちしも)組

白虎台

白虎台

天保10年(1839)に新築。設計は西村治郎兵衛、工匠は大久保与蔵。昭和18年(1943)に休台。昭和56年(1981)から3年間かけて解体修理が施され、昭和59年(1984)に竣工しました。このとき、しばらく途絶えていた子供歌舞伎が再興しました。
台紋は笹竜胆。台名の白虎は四神のひとつで西方を守護しました。金具や彫刻などの装飾が少なく、下段が高く、また見送りがないなど、古い屋台の形態を残す貴重な屋台であります。奉納芸は子供歌舞伎「船弁慶(ふなべんけい)」。


神楽(かぐら)台 向町(むかいまち)組

神楽台

神楽台

天保11年(1840)に弐之町中組より金亀(きんき)台を購入し、朱雀(すざく)台と称しましたが、嘉永年間(1848~1854)に廃台しました。明治16年(1883)に高山一本杉白山(いっぽんすぎはくさん)神社より屋台を購入したときに神楽台と改称し、囃子と獅子舞を取り入れて他の屋台の先頭を掌りました。現在の屋台は明治24年(1891)に新築したもので、工匠は村山英縄(むらやまひでずみ)・西野彦次郎、彫刻は蜂谷理八(はちやりはち)です。
台紋は轡(くつわ)。向町組内の今宮(いまみや)神社に祀られていた蚕飼大神(こがいのおおかみ)に因んでのものと考えられております。屋台には屋根がなく、大太鼓を吊り、金色の大鳳凰を飾っております。


三番叟(さんばそう) 壱之町上(いちのまちかみ)組

三番叟

三番叟

創建年代は不明。破損がひどくなったため、明治28年(1895)以後休台しました。明治37年(1904)の古川大火にて屋台蔵が焼失し、現在、嘉永4年(1851)に新調された猩々緋大幕(しょうじょうひおおまく)とあやつり人形「女三番叟(おんなさんばそう)」のみが残っております。
その後、昭和になって屋台再建の計画がありましたが、太平洋戦争の激化によって制作を中止せざるを得なくなりました。そして、平成21年(2009)に台名旗台車を新調しました。工匠は水尻清雄。


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