国名勝 江馬氏館跡庭園

現代に蘇った中世武家館と庭園

会所と庭園

会所と庭園

江馬氏館跡庭園では、中世飛騨国の地方武士・江馬氏の居館跡で発見された庭園遺構を、それを眺める建物(会所(かいしょ))とともに、復元整備を行って公開しています。
この庭園と会所は、500年前の室町時代の庭園を、当時と同様の建物から当時の視点で眺めることができる全国的にも貴重な事例として、平成29年(2017)10月13日に国名勝に指定されました。中世武家館の庭園と会所の建物をともに復元した場所は、全国でもこの江馬氏館跡庭園だけです。

※今は失われた建物や構造物を、構造・意匠・材料・工法等に注意しながら、当時の様子を現地に再現する史跡の整備方法。


下館跡平面図

下館跡平面図

庭園と会所 主門 土堀 土堀 堀

館の主―江馬氏について―

江馬氏は、今から400~600年前の室町時代~戦国時代、北飛騨を治めていたと伝えられる武将です。平家の一族とも、鎌倉幕府執権・北条氏の一族とも言われていますが、その出自は明らかではありません。
14世紀末頃には室町幕府の認める有力在地領主として活躍しています。江馬氏下館はこの頃につくられ、江馬氏が北飛騨を治める拠点としていました。戦国時代には、飛騨の覇権をめぐり、姉小路(あねがこうじ)氏・三木(みつき)氏などと争います。天正10年(1582)、時の当主・江馬輝盛(えまてるもり)が南飛騨から進出してきた姉小路(三木)自綱(よりつな)に敗れ、北飛騨の領主としての力を失いました。

国史跡「江馬氏城館跡」指定と発掘調査・復元整備

「下館跡」一帯は、近世以降、水田として利用されてきました。地元では、その水田の中に残る大きな5つの石を「五ヶ石(ごかいし)」と呼び、「江馬の殿様の庭の石である」と言い伝えてきました。
昭和51年(1976)から3年間、土地改良工事に先立つ発掘調査を行い、伝承のとおり、庭園を持つ中世武家館跡が見つかりました。
昭和55年(1980)3月、江馬氏が支配していた神岡町内の6か所の山城と共に「江馬氏下館を中心として6か所の山城群が一体となって機能して領地を支配していたことをよく示す貴重な遺跡である」として、国史跡「江馬氏城館跡」の指定を受けました。
平成6年(1994)から整備に先立つ発掘調査を再開しました。結果、堀の外側周辺部の様子も明らかになりました。下館跡は、発掘調査の結果から15世紀末から16世紀初頭にかけて完成し、その後廃絶して他所に移ったことが分かりました。平成12年(2000)から調査に基づいて復元工事を開始。庭園、庭園を鑑賞する会所、主門、土塀などを復元しました。平成22年(2010)完成した史跡江馬氏館跡公園は、「中世の武家館とその庭園」で殿様気分が味わえる歴史体験ゾーンです。

復元された庭園と会所についてー国名勝 江馬氏館跡庭園―

名勝指定範囲は、復元された会所(かいしょ)建物と庭園のほか、周りを囲む土塀・板塀などで構成されています。
庭園は発掘調査の成果をもとに、当時の様子を忠実に再現したものです。居館の南西隅に庭園が配置されています。会所と土塀に囲まれた空間に、景石石組みを伴う不整形の園池が設けられ、会所からは土塀越しに左手に高原諏訪城(たかはらすわじょう)のある山を望み、右手にかけて北飛驒の山地を遠望します。土塀の内側には緩やかな凹凸の陸部を設け、手前に園池を配しています。園池に底打ちや導水路、排水路などは確認されていないため、普段は枯れ池の意匠を呈していますが、雨が降った時には池底に水が溜まって水池となり、景観の違いを楽しめます。
会所は館の主人が客人と対面し、また庭園を眺めつつ客人をもてなす場として使用した建物です。発掘調査で見つかった礎石跡の配置により、およそ東西10間(約18m)・南北4間(約7.2m)の規模で、月見台や縁を有する会所であると推定されました。判明した平面的な規模から、文献史料や現存する建物を参考に当時の会所の構造を推測し、可能な範囲で当時と同じ材料(材質)、工法によって復元しています。会所には、年代的に対面する機能があったことを想定し「主人の間」として押板(おしいた)・違棚(ちがいだな)・附書院(つけしょいん)を備えた書院造りの座敷を設けました。主人の居所であった常御殿(つねのごてん)から廊下を渡り、ここで客人と対面したと想定しています。「接客の間」は当時と同じ視点から庭園を眺めることができます。当時さながらの会食や文化的な催し(茶会・聞香・歌会等)を楽しむことができます。

会所と庭園平面図

会所と庭園平面図

復元した庭園

復元した庭園

接客の間

接客の間

接客の間より庭園を望む

接客の間より庭園を望む

主人の間

主人の間

その他の見どころ

主門

主門

1.主門

主門は、館の正面玄関であり、館を訪れる客人が出入りした門です。間口は約3.85m(12.7尺)、四脚門で大変格式が高いです。会所と同じく、発掘調査の成果から可能な限り当時の様子を復元したものです。


2.土塀と板塀

主門まわりから庭園にかけての土塀も、調査結果に基づいて当時の様子を復元したものです。幅は約約5尺(1.5m)、高さは約10尺(約3m)あります。また、主門から館に入って右側にある板塀も、庭園を目隠しする板塀も復元です。

復元した堀の様子

復元した堀の様子

3.館を区画する堀

掘の形式は2種類あり、主門の前は掘の形が三角形の「薬研堀(やげんぼり)」、その他の区画は逆台形の「箱堀(はこぼり)」となっています。主門前だけ薬研堀なのは、江馬氏の権威を来訪者に見せつけるためと考えられます。館の北側と西側の堀は、発掘調査の成果に基づいて土舗装を行い、当時の様子を復元しています。


墨書かわらけ

墨書かわらけ

4.墨書かわらけ

館で悪いことが起きないように、まじないの文字を墨で書いた素焼きの皿です。文字からは館の東・西・南・北・中央に埋められたと考えられます。下館跡では、脇門前から「西」が、庭園から「南」が見つかっています。脇門前の出土場所には説明表示がありますので、是非現地で探してみてください。


5.江馬氏の城館群

江馬氏は高原郷を治めるため、あるいは外敵の侵入に備えるために、下館の他にも多数の城館を築きました。時間があれば他の城跡も是非訪れてみてください。

  • 高原諏訪城跡
    国史跡。江馬氏の本城(詰め城)です。下館の会所から庭園ごしに見ることができます。広い曲輪(平坦地)や巨大な堀切があり、目を見張ります。
  • 寺林城跡、政元城跡、洞城跡、石神城跡、土城跡
    国史跡。高原郷の各地区の交通の要衝をおさえるための江馬氏の支城です。
    ※土城跡は断崖絶壁に位置し危険なため、見学はご遠慮ください。
  • 傘松城跡
    県史跡。館の西正面に見える観音山の頂に築かれた、江馬氏の重要拠点です。城郭遺構の残存状況は良好で、その様子から戦国時代末期まで使用されたと考えられます。
  • 東町城跡
    下館の廃絶後に移った本拠の可能性があります。現在は神岡城(高原郷土館)の敷地となっています。
高原諏訪城跡

高原諏訪城跡

高原諏訪城跡の巨大堀切

高原諏訪城跡の巨大堀切

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