鎌倉時代の飛騨国の状況は文献が少ないため、よく分かっていません。京の楽人であった多好方(おおのよしかた)が建久4年(1193)に荒城郷(荒城川上流地域)の地頭職に任じられています。
室町時代に入ると国司・姉小路氏(あねがこうじし)が飛騨に下向し、古川盆地を拠点に勢力を誇りました。姉小路氏は、飛騨と京都を行き来しながら領国経営にあたりました。元々の飛騨における本拠は岡前にあったと考えられますが、姉小路氏が3家に分かれた後は、それぞれ拠点を構えたと考えられています。応永18年(1411)、飛騨国司であった古川尹綱(ふるかわただつな)は幕府軍により討伐されます(応永飛騨の乱)。姉小路氏は勢力を落としながらその後も存続しました。室町時代後期になると、姉小路基綱(あねがこうじもとつな)・済継(なりつぐ)父子は和歌の名手として宮廷で活躍しました。
一方、高原郷(現在の神岡町)では、江馬氏(えまし)が勢力を誇っていました。江馬氏の居館跡は発掘調査の結果、京都の室町将軍邸に似た格式の高い庭園や建物が存在したことが判明し、国の史跡・名勝となっています。
戦国時代になると南飛騨から進出してきた三木氏(みつきし)が勢力を拡大します。永禄3年(1560)、三木氏は国司・姉小路氏の名跡を継いで古川盆地を掌握します。天正10年(1582)には、三木自綱(みつきよりつな)が江馬輝盛(えまてるもり)を破って飛騨一円を治めます。
織田信長亡き後、天下統一に向けて急速に勢力を拡大していた羽柴(豊臣)秀吉は、天正13年(1585)に越前大野城主であった金森長近(かなもりながちか)・可重(ありしげ)父子に飛騨攻略を命じます。対する三木氏は山城を改修して防備を固めますが、同年8月には金森軍が古川盆地の各城(小鷹利城、向小島城、野口城、小島城、古川城)を押さえ、遂には三木氏本拠の松倉城を攻め落として飛騨を平定します。
金森氏は高山城を本拠に、領内を支配する支城として古川には増島城(ますしまじょう)を築き、金森可重が城主となったと伝わります。また、神岡では戦国時代に江馬氏が築いたとされる東町城(ひがしまちじょう)を改修し、再利用したと伝わります。元和元年(1615)の一国一城令によって増島城・東町城の2城は廃城となりますが、それぞれの城下町が現在まで至る町場となって形成されました。可重の息子、重勝は分家の左京家として高原郷三千石を内分分知(ないぶんぶんち)され、高原郷の内政に務めながら藩主を補佐しました。
元禄5年(1692)、金森氏は出羽国に転封となり、飛騨国は幕府直轄地(天領)となります。幕府直轄地時代は高山の陣屋に代官・郡代が置かれ、25代177年間続きます。飛騨国では18世紀後半(明和~天明年間)に、郡代からの厳しい年貢の取り立て・不正に反対する大規模な農民一揆(大原騒動)が起きます。現在の飛騨市内でも多くの人々が参加して厳しい処罰を受けました。
江戸時代、現在の飛騨市域は、飛騨国の中心地であった高山の文化的な影響を強く受けました。江戸時代中期になると、今日みられる古川祭が文献上確認できます。
慶応4年(1868)、明治維新により幕府直轄地の時代は終わって高山県ができ、知事として梅村速水(うめむらはやみ)が就任します。梅村はその若さと熱意で新しい政治改革を行いますが、かえって県民の生活を苦しませる結果となり、明治2年(1869)に大規模な住民蜂起(梅村騒動)に発展します。その後飛騨地方は、明治4年(1871)には筑摩県、同9年(1876)に岐阜県に編入されます。
古川においては、明治37年(1904)に大火が起こり、市街地の大半が消失しました。昭和9年(1934)には高山本線が全線開通し、交通の利便性が大きく向上しました。
一方、神岡地域においては、明治7年(1874)に三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を取得し、近代的な鉱山経営を開始します。神岡鉱山は平成13年(2001)に採掘を中止するまで亜鉛・鉛資源の一大生産地として隆盛を誇りました。その類稀なる立地や培われた鉱山開発の技術は「カミオカンデ」「スーパーカミオカンデ」の建設に活かされ、宇宙線研究の最先端の町としてノーベル賞を生むきっかけとなりました。
平成16年(2004)、古川町・神岡町・宮川村・河合村の2町2村が合併して飛騨市が発足し、現在に至ります。平成28年(2016)12月「古川祭の起し太鼓・屋台行事」のユネスコ無形文化遺産登録、平成29年(2017)10月「江馬氏館跡庭園」の国名勝指定と、飛騨市の歴史と文化が内外に認められ、徐々に脚光を浴びています。