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名称 江馬氏城館跡 下館跡 高原諏訪城跡 傘松城跡 土城跡 寺林城跡 政元城跡 洞城跡 石神城跡
ふりがな えましじょうかんあと しもやかたあと たかはらすわじょうあと からかさまつじょうあと どじょうあと てらばやしじょうあと まさもとじょうあと ほらじょうあと いしがみじょうあと
指定区分
時代 室町時代
年代
種別 記念物 史跡 
員数 8カ所
大きさ・面積・様式等 10,714,037,47㎡
指定年月日 昭和55年3月21日
地区 神岡町
所在場所 飛騨市神岡町殿573-1 等
公開・非公開 公開
所有者 飛騨市 等
解説文 江馬氏は北飛騨高原郷を本拠とした中世の国人領主で、応安5年(1372)、山科家領の濫妨停止の使節として「山科家文書」に登場するのを史料上の初見とし、以後しばしば文献に登場する。下館はその本拠で大字殿にある。その背後東側山稜に本城・高原諏訪城があった。北方におかれた支城が土城、西方におかれた支城が寺林城、政元城、南東におかれた支城が洞城、石神城である。
下館の付近には土居、土居の内、御館、御前といった字名が伝わり、昭和49年、土地改良工事に伴い神岡町教育委員会による発掘調査を実施し、建物跡、土塁跡、堀跡、庭園遺構を確認した。「梅花無尽蔵」には禅僧・万里集九が長享3年(1489)高原郷を訪れ江馬氏の饗応を受けた記録が残るが、それは下館においてであったと想定される。高原諏訪城は下館背後の山稜上に築かれる。尾根上を加工し、土塁、腰曲輪、堀切、竪堀を設けている。特に主郭周辺の曲輪・堀切の造成は大規模である。さらに北方尾根上まで広範囲に城郭遺構が分布する。土城は、下館の北方、高原川と支流・跡津川の合流点の岩山に築かれ、頂上部に2段の平場がある。高原郷の主要道は越中東街道であるが、その東側、山之村の唐尾峠を経て越中と信州松本平を結ぶ鎌倉街道も重要な交通路であった。高原郷と鎌倉街道を結ぶ道には、土城より分岐して大多和峠を経て有峰に到る道がある。土城はその分岐に置かれ北方に備えるとともに大多和・有峰を経て越中方面に向かう連絡口としても機能したと想定される。下館の西方、越中東街道沿いに寺林城、政元城が位置する。寺林城は玄蕃山と呼ばれる半独立峰頂部にあり、曲輪や堀切が残っている。政元城にも曲輪や堀切等がみられる。越中東街道はこの地において国府盆地方面に抜ける本道と、数河峠をこえる脇道とに分かれるが、政元城はその分岐点を押さえている。高原郷と鎌倉街道を結ぶ道には南方上宝に通じる上宝道があり、下館沿いを通過する。下館の南方地区の上宝道付近に築かれたのが洞城、石神城である。両城とも曲輪・堀切・竪堀等の遺構が残り、主に信州方面に備えた支城と推定される。
永禄7年(1564)以降、江馬輝盛は家臣・河上氏を通じて越後の上杉氏と同盟関係にあり、情勢により武田・織田とも通じるようになる。天正10年(1582)、輝盛は「八日町の戦い」で三木自綱に敗れ戦死、高原諏訪城も落城した。
江馬氏の城館は下館の庭園跡を代表する遺構の良好な保存状況に加えて中世の城館の相互の関連を示すものとしても貴重である。
傘松城跡は下館の西側正面に位置する観音山の山頂に築かれた山城で、江馬氏の本拠地やそこから延びる街道筋を見渡す立地にある。山上部には曲輪・堀切・竪堀・土塁・横堀等の遺構が確認できる。特に西方向を防御する指向性が顕著であることから、敵対勢力の領域侵入に備えた構造である。そのため、江馬氏の拠点の一つとして位置づけられ、令和6年2月21日に追加指定された。

※土城跡は断崖で危険なため、見学はご遠慮ください。
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