飛騨国司・姉小路氏の城館群

飛騨の中世を物語る 古川盆地の山城

古川盆地周辺の城跡マップ

古川盆地周辺の城跡マップ

中世に朝廷より飛騨国司として任じられた「姉小路(あねがこうじ)氏」は、古川盆地(現在の飛騨市古川町周辺)を拠点に、飛騨国の領国経営にあたっていました。やがて姉小路氏は3家(古川(ふるかわ)・小島(こじま)・向(むかい))に分かれ、それぞれ古川に居城を構えました。
16世紀に入ると、南飛騨を拠点としていた三木(みつき)氏が北に勢力を伸ばし、遂には古川盆地を掌握し姉小路氏の名跡を継ぎました。三木氏は旧来の姉小路氏の城館を改修して利用したと考えられます。天正10年(1582)、高原郷の江馬氏を滅ぼした三木(姉小路)自綱(よりつな)は、飛騨全土を手中に治めます。
ところが、三木氏は羽柴秀吉と敵対します。天正13年(1585)、秀吉の命を受けた金森長近(かなもりながちか)・可重(ありしげ)父子が飛騨に侵攻します。その際、三木氏は備えとして城跡を大規模に改修しました。
その三木氏を滅ぼし、金森氏が飛騨を統治します。金森氏は三木氏が拠点としていた小島城・古川城に、秀吉の統一政権のシンボルとしての巨大な石垣や櫓(やぐら)を築き、麓の領民に示します。引き続き増島城(ますしまじょう)やその城下町を築き、今に続く古川の町並みの原型を作りました。
このように、中世の飛騨国の中心地であった古川盆地をめぐって、「姉小路氏」「三木氏」「金森氏」という3つの支配勢力が移り変わり、拠点であった城跡もそれを契機に改修されたと考えられます。城館群を巡ると、支配勢力や政治的動きの変遷を、築城・改修の様子から具体的に見て取ることができるのです。まさに「飛騨の歴史を物語る城館群」と言えるでしょう。


姉小路氏城館群 関連年表

西暦 元号 ことがら
1378 永和4 はじめて「飛騨国司」と称される藤原家綱が、従三位参議に叙任される。
応永期 『教言卿記』に古川尹綱・小嶋禅門・向家熙らの動向が見え、3家の存在が確認できる。
1411 応永18 「飛騨国司」古川尹綱、乱を起こし幕府に討伐される(「応永飛騨の乱」)。
1417 応永24 「飛騨国司」師言が従三位参議に叙任される。
1435 永享7 広瀬氏が広瀬郷の知行を主張し訴訟を起こす。
1468 応仁2 「小島郷神通河以南」の権利について、小島勝言と向之綱が係争し、小島氏の知行とする院宣が出される。
1471 文明3 8月、姉小路氏が守護・京極方と争い、守護方の三木某が討ち死にする。
10月、守護代・多賀氏に横領されていた山科家領(江名子郷・松橋郷・石浦郷・岡本上下保)について、小島勝言が代官職に補任される。
1504 永正元 姉小路基綱、死去。
1518 永正15 姉小路済継、死去。
1527 大永7 姉小路済俊、死去。
1530 享禄3 三木氏と古川・向氏とで争いが起こる。
1531 享禄4 前年に続き、向氏の家臣・牛丸与十郎が「志野比」の城に篭り、三木勢に攻め落とされる。3月20日には「古川の城」が落ち、残兵は白川方面に敗走したが、大野勢が渡り合って、悉く討ち取られる。4月、三木直頼が「両小島」へ礼に向かう。
1544 天文13 兵乱により安国寺・千光寺が被害を受ける。
1560 永禄3 2月、三木良頼が従四位下・飛騨守に叙任され、古川氏の名跡を継ぐ。
1582 天正10 三木自綱と江馬輝盛が荒木郷八日町で合戦に及び、輝盛が討ち死し江馬氏敗走(「八日町合戦」)。直後三木方の小島時光が高原諏訪城に攻め入り落城。
1585 天正13 豊臣秀吉の命を受けた金森長近・可重父子が飛騨に侵攻。隠居していた三木自綱は降伏し京都で隠棲。当主秀綱は松倉城落城後、信州に落ち延びる途中で土民により殺害。
1587 天正15 三木自綱、京都で死去。
1588 天正16 金森氏、高山城普請開始。増島城もこのころに普請を開始したと考えられる。
1615 元和元 一国一城令により、増島城廃城。

以下は山城の用語です。注意してみるとより楽しく城を巡ることができます。

曲輪(くるわ) 山を削平して作られた平坦地。
切岸(きりぎし) 山を切って作られた人工の急斜面。
堀切(ほりきり) 尾根筋を掘り切って切断した空堀(からぼり)(水のない堀)。尾根筋からの敵の侵入に備えた防御施設。
横堀(よこぼり) 曲輪を囲い込む横方向の線的な空堀。戦国期後半に発達する。
竪堀(たてぼり) 山の斜面に沿って縦に掘られた空堀。敵の斜面移動を封鎖する。
畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん) 竪堀を連続して設けたもの。畝状竪堀群ともいう。
土塁(どるい) 曲輪の縁辺部などに作られた土盛りの防御壁。
土橋(どばし) 土で築いた橋。
虎口(こぐち) 城の出入り口のこと。戦国期後半になると、門の前面や内面に土塁を構えて直進させずに折れさせて移動させる「枡形虎口(ますがたこぐち)」が出現する。
算木積(さんぎづ)み 石垣の隅の積み方。石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増している。本格的に城郭に用いられるのは織田信長の安土城以降とされている。

山城の多くは、個人の方が所有する山です。山での火の使用はおやめください。
土塁や堀は崩れやすいので、遺構の保護のためにもお気をつけて見学してください。
また、ゴミは各自で持ち帰るなどして、大切な文化財の保全にご協力ください。
登山道が整備されていない山城もあります。見学の際は気をつけて登山してください。
なお、土日は市営バスが運休となるためお気をつけください。

1.古川城跡(ふるかわじょうあと)(県史跡)

古川城跡の内枡形虎口

古川城跡の内枡形虎口

古川城は、姉小路三家の一角・古川氏の居城と伝わります。古川氏と向氏は享禄3~4年(1530~1531)にかけて、南飛騨から勢力をのばしてきた三木氏と争いますが敗れます。以後は三木氏がここを本拠地として押さえていたと考えられます。永禄3年(1560)には三木氏が姉小路(古川)氏の名跡を継ぎます。その後、金森氏が飛騨に侵攻して三木氏を滅ぼしてから増島城を築城するまで、ここを拠点としたと伝わります。
城跡は、中世古川の中心的な集落地であった上町遺跡(かんまちいせき)を見下ろします。主郭と帯曲輪(おびぐるわ)(主郭を取巻く郭)の切岸の斜度・高さはすさまじい規模です。また東側には石垣を伴う枡形虎口があり、主郭の櫓台の直下には石垣の跡を見ることができます。これらは旧来の飛騨の山城には見られないもので、金森氏の改修が考えられます。羽柴秀吉の統一政権の威光を示すため、麓から目立つランドマークとなったことでしょう。


古川城跡縄張り図

古川城跡縄張り図

◆古川城跡へのアクセス

  • JR高山本線「飛騨古川駅」下車し、城跡まで徒歩約60分。

2.小島城跡(こじまじょうあと)(県史跡)

小島城跡の算木積みの石垣

小島城跡の算木積みの石垣

小島城は姉小路三家の一角・小島氏の居城です。高原郷(たかはらごう)と小島郷(こじまごう)を結ぶ神原峠(かんばらとうげ)の峠道が脇を通る交通の要衝に位置し、高原郷からの敵の侵入を睨んでいます。
小島氏は、三木氏の勢力が強くなるとそれに付き従い、天正10年(1582)の八日町合戦(ようかまちかっせん)の直後、当主の小島時光(ときみつ)は江馬氏の本拠・高原諏訪城(たかはらすわじょう)に攻め入り落城させます。その折に手に入れた大般若経が、小島城の麓にある寿楽寺(じゅらくじ)(古川町太江)に収められています。
小島城には、石垣を使用した大規模な枡形虎口(ますがたこぐち)があり、算木積(さんぎづ)みの石垣がその背面に構築されています。これは、「土造り」を基本とする旧来の飛騨の山城には見られないものです。そのため小島城も古川城と同じく金森氏が改修した可能性があります。小島氏は金森氏の飛騨侵攻の際に滅ぼされたと伝えられていますが、その後に入った金森氏が統一政権の威光を示すために臨時的に改修を加え利用した可能性が考えられます。


小島城跡縄張り図

小島城跡縄張り図

◆小島城跡へのアクセス

  • JR高山本線「杉崎駅」下車し、城跡まで徒歩約40分。
  • JR高山本線「飛騨古川駅」下車。
    市営バスひだまる太江線に「飛騨古川駅」から乗車し、「太江公民館」下車。
    城跡まで徒歩約30分。

3.野口城跡(のぐちじょうあと)(市史跡)

野口城跡の横堀と畝状空堀群

野口城跡の横堀と畝状空堀群

野口城は、近世の地誌等でも城主が不明とされており、築城主に関する記録は伝わっていません。ところが立地的には、宮川沿いの越中西街道や数河峠(すごうとうげ)がすぐ西側で合流する場所で、向小島城や小鷹利城、古川城を望めます。西方面からの古川盆地への出入りを監視する重要な場所に位置します。このような立地から姉小路氏が築城した可能性が高いと考えられます。
山の頂上には3箇所の大きな曲輪(平坦地)が連なり、それを護るように堀切(ほりきり)・竪堀(たてぼり)・切岸(きりぎし)といった遺構があります。遺構からはダイナミックな飛騨の土造りの城の様相を見ることができます。特徴的なのは、畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)と呼ばれる畑の畝のような連続した竪堀です。特に厳重に護りたい峠方向を中心に造られており、横堀(よこぼり)を組み合わせて防御力を増強しています。金森氏の侵攻に備えた三木氏の改修が考えられます。
このように、歴史的には謎の多い野口城ですが、立地・遺構の規模に関しては、他の城跡に全くひけをとらない素晴らしい山城です。


野口城跡縄張り図

野口城跡縄張り図

◆野口城跡へのアクセス

  • JR高山本線「飛騨細江駅」下車し、城跡まで徒歩約40分。

4.向小島城跡(むかいこじまじょうあと)(県史跡)

向小島城跡の畝状空堀群

向小島城跡の畝状空堀群

向小島城跡は、姉小路家の一角・向(むかい)氏の居城と伝わります。向氏は別名・小鷹利(こたかり)氏とも言い、小鷹利城とも近しいことから、両城とも向氏関係の居城であったと考えられます。古川盆地の西側に位置し、北からの越中西街道、西から湯峰峠(ゆみねとうげ)を押さえる立地です。主郭からは小島城や野口城を望むことが出来ます。享禄3~4年(1530~1531)、向氏は古川氏と協力して、当時勢力をのばしてきた三木氏と争いますが敗れます。以後は古川城と同じく、三木氏がここを押さえていたと考えられます。
特徴的な遺構としては、城の西側の尾根に設けられている畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)です。連続した竪堀(たてぼり)と横堀(よこぼり)をセットで構築しており、更に巨大な切岸(きりぎし)とその上部に土塁を設けて厳重に護っています。連続した竪堀で前後左右の動きが鈍った敵に対し、上部から弓矢を浴びせることができます。小鷹利城や野口城でも同様の遺構を見ることができます。ちょうど湯峰峠方面に向けられて構築されているため、金森軍侵攻に備えて三木氏が急遽構築したと考えられます。また、尾根上の堀切(ほりきり)も巨大で、非常に見ごたえがあります。


向小島城跡縄張り図

向小島城跡縄張り図

◆向小島城跡へのアクセス

  • JR高山本線「飛騨古川駅」下車。
    市営バスひだまる桃源郷線に「飛騨古川駅」から乗車し、「笹ヶ洞公民館」下車。
    城跡まで徒歩約20分。
    注:登山道は整備されていませんのでご注意ください。

5.小鷹利城跡(こたかりじょうあと)(県史跡)

小鷹利跡の畝状空堀群

小鷹利跡の畝状空堀群

小鷹利城跡は、向氏の別称「小鷹利」を冠することから、向氏の居城と伝わります。享禄4年(1531)以後向氏は没落し、向小島城と同じく三木氏がここを押さえていたと考えられます。
小鷹利城は、「境目の城」としての役割があります。白川郷方面から保峠(ほとうげ)、湯峰峠(ゆみねとうげ)を越えて古川盆地を攻め入る敵を迎え撃つ場所にあります。主郭(しゅかく)の西側の斜面には十数本の畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)があり、城郭遺構としても峠を越えてくる敵を警戒していることが分かります。天正13年(1585)に金森軍はこのルートを通って攻め込んだとされており、大激戦であったと思われます。また、畝状空堀群に対して南側には、土塁(どるい)で保護した曲輪(くるわ)が張り出しており、斜面を登る敵に対して側面から攻撃できるようになっています。また、主郭に攻め入る際も、南から順番に上らなければならない構造のため、非常に攻めにくい構造です。
このように小鷹利城では、飛騨のダイナミックな土造りの城の様相と、戦国末期の緻密な縄張りを見ることができます。


小鷹利跡縄張り図、主郭周辺拡大図

小鷹利跡縄張り図、主郭周辺拡大図

◆小鷹利城跡へのアクセス

  • JR高山本線「飛騨古川駅」下車。
    市営バスひだまる桃源郷線~山王行に「飛騨古川駅」から乗車し、「橋本商店前」下車。
    城跡まで徒歩約30分。
    注:バス停はなく自分の下車したい場所を運転手にお伝えください。

姉小路氏の城館群・地図

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